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『逮捕されるまで』市橋達也著

■要するに

この本は殺人犯の市橋達也氏が、犯罪を犯してから逮捕されるまでの2年7か月の逃亡生活を述べた作品です。飾らない言葉で、起こった事実に基づいた事柄のみを淡々と叙述していますが、全国を転々とする中で氏が体験した、沖縄でのサバイバル生活、大阪での肉体労働の日々、そう言った特異な体験が、本書を特異な作品にしていると思います。

 

平易な語り口で特異な体験を語る特異な作品

 

■自分ルール

市橋達也氏が様々な場面で、「自分ルール」を語っているのが印象的でした。

 

ホームで特急列車を待って、到着した列車に乗ると、トイレの中に隠れた。トイレの中で何時間も隠れていたら、明け方近くに、「次は京都です」というアナウンスが聞こえた。あ、京都なんだな、と思った。京都にはお寺や庭園を見に何度も来ている。土地鑑もあった。早く電車から降りたかった。

でも、降りちゃいけない。

京都に行ったら絶対捕まる。

そう直感が言っていた。

京都を通り過ぎて、朝方、大阪駅で降りた。

 

四国に行き、お遍路をしようと思った。もしかしたらリンゼイさんが生き返るかもしれない、そう思った。自分が犯したことを現実感を持って考えることができなかった。

 

最初の頃、歩いていると、おじいさんがいきなり話しかけてきた。

「あんた、お遍路かい」

ぼくは無視して歩き続けた。事件を起こした今、僕は人と話してはいけない。怖かったが、でもうれしかった。人と初めて触れ合えた気がした。

 

業者の重機担当はよく怒鳴った。

「はよしろ!」

むかっとしたが、その怒りを仕事に向けた。命令されたら、すぐに走ってやった。

怒ると力が出る。

やったことがない仕事も、怒ったことで続けられた。

 

彼の自分ルールは、「京都に行ったら絶対捕まる」「お遍路をすれば死者が生き返る」といった、非現実的、神秘的な色彩のものから、「目立たないように誰とも話さずうつむいて歩き続ける」、「仕事で腹が立った時は怒りを仕事に向ける」、といった現実的、実用的なものまで、バリエーションが豊富ですが、彼は一貫して実際に起こっている現実よりも、自分の中のルールの方に従って生きている印象を受けました。

 

例えば「お遍路をすれば死者が生き返る」という自分ルールに従って、警察に追われているにもかかわらずお金を稼ぐことも遠くへ逃亡することもなく実際に四国へ行って、お遍路を歩いていますし、また、「仕事で腹が立った時は怒りを仕事に向ける」というのも、口で言うのは簡単ですが、実践するのはかなり難しいと思います。実際に自分が怒りを感じているのは一緒に仕事をしていて関係性がうまくいかない上司や同僚なわけで、ふつうはいくら思い込んでもその現実をどうしても意識してしまうと思います。

 

その自分ルールに従うこと、あるいは現実よりも自分ルールにフォーカスを当てる能力が、彼が逆境にあって生き抜くことができた原動力なのではないかと感じました。彼は自分が指名手配され、懸賞金がかかること、テレビで自分の事件のこととその捜査のことが報道されるたびに、動揺し、本書の中でも「怖い」と述べていますが、しかしそういった現実に起因する不安や恐怖が彼を支配してしまうことはありません。それはやはり、彼の生活と普段の思考が、彼の自分ルールに従っているからだと思います。

 

自分ルールに集中することが逆境に耐えるパワーになる

 

■静謐な生活

市橋氏は逃亡生活の中で、本を買って読んだり、わざわざDVDプレイヤーまで買って映画を見たりしています。

 

DVDプレイヤーを買って、ハリウッド映画のソフトも何本か買った。仕事のない日は、部屋の中で英英辞書やフランス語の辞書を見たり、映画を英語字幕で見て、その意味を辞書を使って調べたりしていた。

映画を見た時、自分の気持ちと状況に合った言葉、印象に残った言葉をメモ帳に書き留めた。

 

最近犯罪者が出てくる作品を何作品か読んでいますが、そのすべてにおいて犯罪者、あるいは服役中の登場人物がこういう芸術方面や学問方面の活動をしているシーンがあります。

 

『朗読者』ベルンハルト・シュリンク著、松永美穂訳 - H * O * N

『冷血』カポーティ著、佐々田雅子訳 - H * O * N

 

人を殺す、犯した罪で裁かれる、こういった体験はその人に強烈な印象を与え、その人の心は千々に乱れることと思います。しかしそういう強烈な体験をしても、心が千々に乱れ続けていつまでも生活が手につかない、ということはないのではないかと思います。喉元過ぎれば熱さ忘れるというやつで、強烈な興奮、強烈な恐怖もやがて色褪せ、そうなったときに犯罪者の懸案になるのは、

暇つぶし

であるというのがポイントだと思います。逃亡中の犯罪者は人目を忍ばなければなりませんし、服役中の犯罪者は獄中に娯楽がほとんどありません。そんなあまりにも多くの制約の中で犯罪者たちが見出す無聊の慰めが、非常に静謐で文化的であるというのももう一つのポイントです。上で引用した市橋氏の静謐な映画鑑賞もそうですし、上記リンクの『朗読者』の中では、登場人物が刑務所内で雑誌や新聞から絵画や詩をスクラップして、殺風景な房にささやかな花を添えているシーンがあります。

 

つまるところ人間の心を楽しませる本質的な部分は、個人的な心の動き、感性の動きの中にあって、逃亡中でも獄中でもない我々が日々追い求める群衆や虚栄といったものがいかに本質から離れているのかということが、犯罪者の静謐な楽しみを目の当たりにした時の好ましさ、憧憬という形をとって意識されているのではないかと思います。

 

静謐で文化的な犯罪者の楽しみ

 

■事実の中の詩情

この作品を手記ではなく文学作品としてみたときの見どころは、「遍路道を回り、琵琶を食べ現実を知るシーン」だと思います。

 

遍路道を歩いていると、ビワ畑が並んでいる場所を通った。ビワ畑の一つに入った。ビワの実はひとつひとつ袋にくるまれていた。おなかがすいていたので、実をもいで食べた。

すごくおいしかった。もいだばかりの果実はチョコレートなどの砂糖の甘さとは違って、初めて食べたと思うくらい、甘くておいしかった。

そしてこの時、急に、僕はリンゼイさんはもう生き返らないんだとわかった。彼女のことを思って、遍路道をいくら回ったって人が生き返るなんてことはない、僕はリンゼイさんの命を奪った、それはもうどうやっても変わらない。現実がはっきりとわかった。

 

肉体的精神的な疲労と、自身が置かれている状況から、彼は現実から遊離したように遍路道を歩き続け、ビワの実を食べます。「すごくおいしかった」「初めて食べたと思うくらい、甘くておいしかった」との月並みで武骨な形容ののちに、「現実感を取り戻す」わけです。読者は、月並みで武骨な形容では今一つ伝わらなかったビワの味の感動を、その後の現実感を取り戻すという心の動きを追うことで正しく理解することになると思います。

 

彼がこういう意図でもってこのシーンを書いたのかはわかりませんが、というより全体を通してそういう技巧に走ったり奇を衒ったりするそぶりが見られないのでこのシーンでも同様にそういう特別な意図はないと思いますが、このシーンは逃亡中のお遍路という現実感のないシチュエイションと、現実感を呼び戻すほどの強烈な体験となったビワの鋭い甘みが対比されて、逃亡中であるという彼の「その場感」を上手く切り取ったいいシーンだと思います。

 

お遍路で現実感を忘れてさまよい、ビワの強烈な甘みに現実を思い出す

 

さらにもう一つは、モーニング娘。の歌のシーンです。

 

昼間の仕事でふらふらになってくると、モーニング娘。の歌をよく口ずさんだ。事件前はモーニング娘。の歌をほとんど聞いたことがなかったから同じフレーズばかりだったけど、なぜかほっとした。労働者の応援歌なんだと思った。

 

意味も考えずに同じフレーズを繰り返し歌い、なぜか仕事の疲れが癒されるという体験を述べた極めて短いシーンです。この体験に関する言及もまた極めて短く、「労働者の応援歌なんだと思った」の一文だけです。アイドルの歌謡曲と、労働者の応援歌、という点の関連性は全く説明されませんが、何となく言いたいことがわかります。それは、ここで述べられているような、疲れているとき、落ち込んでいるときに、遠くから、テレビの中から聞こえる名も意味も知らない歌謡曲が、なぜか救いになる経験を私がしたことがあるからでしょうし、私同様そうである読者の方もまた多いのではないかと思います。

 

このシーンもこの手記で一貫して用いられている平易で淡々とした語り口が奏功していて、この密度と解像度でこの体験を切り取るということ、そしてこれの体験を評して、「労働者の応援歌」という見事としか言いようがない表現を用いること、これらの点が、この短い文の完成度をいやがうえにも高めていると感じます。

 

救いになる名もなき歌

 

■ちなみに

紹介した作品はこちらです。