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【続】『「友達いない」は"恥ずかしい"のか』著:武長脩行

 

■要するに

この本は、今年の六月ぐらいに読んで当ブログで感想を書いた本です。その時の記事はこれ↓で、内容をざっくりいうと、

『「友達いない」は"恥ずかしい"のか』著:武長脩行 - H * O * N

・「孤独」という状態は、社会から個人へのネガティブな働きかけの一形態である

・何らかの行動を起こした行為主体に対して、社会が甲斐であると判断した場合、その行為主体を排斥するために孤独という措置がとられる

・孤独という状態を経験することは、何か行動を起こすときに、そのリスクを正しく見積もることに資する

・多くの人は孤独の恐怖を過大評価して、多くのことを諦めて生きているように見える

こんな感じです。そして別の機会に「友達いない、は恥ずかしいのか」という、本書のタイトルにして本書では明確な答えが与えられていない問いを考察すると言って締めくくられています。今回はこっちの考察をしてみたいと思います。

 

友達いない、は恥ずかしいのか

 

 

■友達いない、は恥ずかしいのか

この問いの前半部分、「友達いない」というのは、言うまでもなく孤独のことを表しています。ですからこの問いは孤独という状態が恥ずかしい状態、不名誉な状態なのかどうかということを問うているということになります。本書の内容は、孤独という状態の再定義、それもポジティブな意味での再定義です。ですので本書の言わんとしていることは「孤独は恥ずかしくない!」という事だろうという推測ができます。

 

本書は、「孤独は恥ずかしくない」と言いたい

 

しかし本書の内容は、ただの作者の感想です。製本されて活字になったからと言ってその主張の内容に何らかの権威が与えられるということはありません。本になっても感想はただの感想です。そもそも本書は、孤独のいい面を説明して、孤独をポジティブに再定義しただけであり、恥ずかしいのかどうかを論じていません。恥ずかしいかどうか、というのは、「自分の周囲の人、不特定多数の人が見たときにそれが嘲笑の対象になる」状況であるとか、「その特徴を有する自分が、その特徴が不特定多数の人に嘲笑されうるという想念を抱いている」状況を指して用いられる言葉です。本書はこの点に言及せず、孤独の良さを解説しています。いいことでも先述の状況に当てはまれば「恥ずかしい」ことになりえます。

例えば私は中学生の時、プライベートで自転車に乗るときも学校指定のヘルメットを被っていました。ヘルメットの着用自体は学校で推奨されていましたし、万一の事故の際に頭部を守るという意味で有効で「いい面」もあるのですが、当時の状況は私の中で「ハズカチイ」思い出として記憶されていますし、客観的に中学生にもなって学校側の定めたルールを律義に守り、ヘルメットを着用して外出する中学生は恥ずかしいと思います。中学生時分に彼氏が初デートでヘルメットを被ってチャリで待ち合わせ場所に来た時のことをご想像いただければ私の言わんとしていることはたちどころに理解されると思います。

この例からわかる通り、いい面があることと、恥ずかしいかどうかは全く別の問題です。そう考えたとき孤独はどうでしょうか。これは間違いなく恥ずかしい状態です。孤独というのが前の記事で述べた通り社会からの懲罰の意味合いを持ち、またその定義より「周囲の不特定多数に対して、関係性の上で差異がある」ということになるので、これは先ほど定義した「恥ずかしさ」に非常に近い状態と言えます。罰を与えられるということは、社会全体から見て行為主体が著しく劣っているか、あるいは行為主体の感覚(美的感覚、倫理観などの総体としての感覚)が全体のそれと著しく乖離しているかのどちらかであるということは予想でき、孤独な状態はその証拠となります。孤独は個人を判断するうえで重要な判断基準になりえるのです。孤独というのは罪人の刺青のようなものです。

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孤独は恥ずかしい

 

■恥ずかしい孤独という状態は悪なのか

そんな恥ずかしい孤独もいい面を持っているというのは、前の記事で述べた通りですし、また本書でも再三指摘されている通りです。あくまでも善なる状態、美なる状態と恥ずかしいという状態は必ずしも一致しないのです。

これは孤独という状態にもいくつか種類があり、例えば空気を読めていない言動を繰り返して友人が自分のもとから去っていき、その結果現出した孤独と、周囲の友人や異性からの惜しみない敬愛と関心を一身に集めながら誰ともつるまず、窓際で「ゲーテ」とかを読んでいる孤独では当然意味も行為主体の心持も変わって来るわけで、そういう孤独という状態の中での振れ幅に非常に左右されると思います。

 

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恥ずかしいけどいい面もある孤独

 

■恥ずかしさを気にするということ

一番の害悪はこの「はずかしい」という感覚だと思います。例えば先ほどの例で、空気の読めないA君、彼が自身のその状況を恥ずかしく思うことには意味がありません。A君が友人に嫌われていった過程で、自身の振る舞いに後悔があるのであれば、それは改善し、自身の振る舞いに後悔がなければそのままの状態で、新しい友人を作るべきです。結構な変わり種な人間でも受け入れてくれるところというのは案外あるもので、最初は自分の立ち位置に不満があるかもしれませんが、いずれその中で気の置けない仲間やあこがれる存在に出会い、そんな彼らを守ってやりたく思い、彼らと笑いあいたく思うときに、A君は初めて自身の身勝手なふるまいを顧みるかもしれません。社会から排斥されることで得られる痛みと気づきが人を成長させると思います。然るに自身が「恥ずかしい」存在であるという想念は、この新しい友人を作りに行くという、人間の成長にとって不可欠の行動を制限してしまいます。

自身の行動を改善するつもりがあるなら恥ずかしさを持つ必要はありません。また恥ずかしさを持つのであれば「友達いない」という状況に対してではなく、「友達いない」状況を作った原因である、自身の身勝手なふるまいの方を恥じるべきです。

窓際でゲーテを読んでいるB君、彼にとってその状況が恥ずかしく思うかどうかという問いは愚問もいいところだと思います。

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恥ずかしいかどうかを気にする態度は害悪

 

そもそも「友達いない」という状況を恥ずかしく感じるというのは、恥ずかしい状況に陥っている誰かを傍観している他者の目線から生まれる発想です。他者から見えるのは友達いないという状況だけで、そこに至った経緯である身勝手なふるまいだとか、その振る舞いが生まれた動機だとかは基本的に見えていない、覚えていないので、そう考えることしかできません。しかし孤独を抱えているのが自分であったら、他にも考えるべきことは多くあると思います。ひたすら恥じ入り、体裁を取り繕うことではなく、自分の振る舞いとその動機を考えて自分の中の正しさや美しさを育てていくことにエネルギーを使うべきだと思います。

 

的外れなことが書いてある本はこちらです↓