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『冷血』カポーティ著、佐々田雅子訳

■要するに

実際にあった一家四人の惨殺事件を題材にした作品です。徹底した取材と膨大な資料を基に物語を構成するニュージャーナリズムと呼ばれる手法で書かれた、筆者曰くノンフィクション・ノヴェルであるところの本書は、実話であるが故の荒唐無稽さ、些末さといったものが実話としての重みをもって読者に伝わる、なかなか読み応えのある作品だと思います。特に訳者があとがきにて指摘している通り、犯人や被害者、捜査官、隣人など、ほとんどすべての登場人物の家族との絆に意図的に焦点を当てることで、物語に非常な厚みが、少なくとも多大なページ数を費やしただけの厚みが出ていると思います。冒頭では被害者の家族の生活が事細かに描かれ、彼らの突然の死と、のちに語られる事件の克明な全容をより一層印象的にすることに成功しています。

 

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長いけど実話故の読み応え

 

 

■法について

犯人を追い詰める捜査官チームの面々、特にリーダーの「デューイ」は、非常に感情的であるように見えました。その最たるものが、デューイが犯人「ペリー」を捕縛して拘置所に護送する車の中で、ペリーから事件の自白を聞いた後のシーン、

デューイは、…怒りを抱くことなく―――むしろ、幾分かの同情をもって―――自分の傍らの男を眺めることができた。というのも、ペリー・スミスの人生はけっしてバラ色ではなく、憐れむべきものだったからだ。一つの蜃気楼から、また別の蜃気楼に向かう無様で孤独な道程。しかし、デューイの同情は、寛恕と慈悲をもたらすほどに深いものではなかった。彼はペリーとその相棒が吊るされるのを―――続けて吊るされるのを―――見たいと望んでいた。

私はこの態度はふさわしくないと思います。確かに、デューイが自身のプライベートと健康を損なってまで逮捕に固執した犯人に何の感情も持たないというのは難しいと思います。しかし、プロの刑事としての自覚があるなら、その感情の露見は当然抑えるべきだし、その感情の発生についても、抑えることが望ましいと思います。

例えば、上記の引用においてデューイは、「ペリーに多少の同情はしたが、彼への憎悪を打ち消すほどのものではなかった」となっていますが、たとえばデューイが妻との仲がうまくいっていなくて、ペリーが美人の女性だったらどうなっていたでしょう。同情と憎悪の量は増減しなかったでしょうか。あるいはデューイは最近子供が生まれて幸福の絶頂にいたら?あるいは空腹と疲労で極端に虫の居所が悪かったら?こういう同情と憎悪のバランスの問題で犯人の処遇…問題なく拘置所まで送られるか、あるいは拘置所までの途上で見逃してもらえるか、に差が出てくる、あるいは差が出てくる可能性が増減することは好ましくないと思います。

デューイが心身ともに健康で万全のコンディションであってもまだ問題は残っています。例えばデューイが持つ固有のこだわり、例えば宗教や、自身の経験からくる独自の倫理観、そう言ったものも上記と同様に同情と憎悪のバランスの問題に影響を与えます。

法の執行者としての警察、あるいは司法に携わる人間としてふさわしい態度というのはどういうものでしょうか。法を厳正に執行するという態度、これに尽きます。司法の役割は法の執行であって、それ以上でも以下でもない、あるいはそれ以上でも以下でもあってはならないと思います。司法は自らを正義としてではなく、法の事務手続きの執行者として位置付けるべきだと思います。自らの正義を法と重ね合わせるのは、法の拡大解釈、曲解のもとであって、法は正義とよく似ていますが正義とは全く別物です。法が気にしているのは愛や正義の問題ではなく、社会が安定すること、この一事のみです。社会の安定のために必要であれば犯罪者を殺すこともしますし、堕胎も性風俗も否定しません。動物映画を見た後に牛さんがかわいそうになって一時的にベジタリアンになったりもしません。一般的な正義よりもずっと寛容で、また明文化されているという特徴からくる再現可能性を有するのが法です。

法に携わる人間はこのこと―――自分の正義がいかに曖昧で不安定なものかということ、それを補い、それにとって代わるために法が生まれたということ―――をよく理解するべきだと思います。そういう意味で、ペリーとその相棒の裁判を担当する判事、テート氏の態度は、法の執行者として非常に適切であると感じました。

テートは判例集の法律家といってもいいくらいだ。決して実験はしない。厳格に定石を踏むほうだ

判事という仕事は、例外的に、自身が必要と判断した場合、自身の良心に従って、法に解釈を加えることがある程度許されている仕事だと思います。法も現状では完全ではなく、判事が下す決断の集大成である判例によって成長していくものだからです。しかし決して実験しないという態度は実験したがる態度に比べて何倍も優れていると思います。

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法の執行者に正義は不要

 

■事件の防止についての可能性

この事件は、刑務所内で他の囚人から被害者家族のことを聞いていた犯人「ディック(ペリーの相棒)」が、仮出所中に当該家族を襲ったことで発生し、その家族のことを喋った囚人「ウェルズ」が、自責と悔恨の念、報酬欲しさに刑務所内での会話を密告したことがきっかけとなって解決に向かっています。

デューイにしてみれば、行き詰った捜査を前進させてくれる有益な情報をもたらしたウェルズは救世主のように見えたことでしょうし、本書でも若干そのように扱われているように感じますが、ウェルズはディックに被害者家族のことを話して、事件のきっかけを作っていることは見逃しがたい事実です。然るに本書ではその事実に一切触れられていません。ウェルズは犯人二人の裁判の証人として呼ばれ、証言をした後に、報酬を受け取って仮釈放されています。

先に述べた個人的な正義がそうさせている可能性はあると思います。デューイ氏にとっての正義は刑事にとっての正義、すなわち発生した事件の犯人を捕まえること、であり、その意味ではウェルズは協力者ということができます。しかしウェルズが事件のきっかけを作った廉で社会に敵対する行動をとった、社会を不安定にしたということも認められることで、この点では彼は反社会的な存在です。個人的な正義によってのみ突き動かされて職務に当たると、自分の正義に合致する面、ウェルズの協力者の面しか見えなくなって、実は彼が反社会的な存在だということを見落としてしまうことになるのではないかと思います。

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捜査の協力者であり事件のきっかけを作った張本人のウェルズ

ウェルズは事件のきっかけを作った廉で裁かれるべきだし、刑務所内の会話が仮出所中の犯行のきっかけになっているというケースを考慮して、刑務所内の会話の制限、仮出所中の犯人の行動の制限、仮出所の際の基準の厳格化、仮出所制度自体の取りやめ、そう言ったことは考慮されてしかるべきだと感じました。

■囚人の権利の扱い

逮捕後の犯人が、人権団体に投書を行い、裁判のやり直しを求めるシーンがあります。

ディックは毎日何時間も法律書をめくって過ごし、自分の有罪判決を逆転するのに役立つと思われる資料を寄せ集めた。また、同じ目的で、アメリカ自由人権協会カンザス州法曹協会といった組織に手紙の波状攻撃をかけた。それは、自分が受けた裁判を「法の手続きを戯画化したもの」と攻撃し、受け手に新たな裁判の請求に助力してくれるよう促す手紙だった。

あるいは、先に私の述べた仮出所制度への疑問について、犯人の人権侵害だとお感じになった方もいるかもしれません。犯人の人権は認められてしかるべきだと思います。しかし、それは社会を不安定にする心配がない場合に限っての話です。社会を不安定にする可能性がある場合には、現状すでに犯人の人権は十分侵害されています。意に反して刑務所という施設に閉じ込められるのだって人権侵害ですし、人間の最も基本的で根源的な権利である、生きる権利を奪う死刑という刑罰もあります。これらの人権侵害は社会の安定化のために一定の効果があると認められているからその存在を許されているのだと思います。ほかの犯罪者に対する抑止力になりますし、刑務所に入っている間、あるいは死刑で殺された後、犯人は再犯率が0になります。この事実は社会の安定化に役立っていると思います。

仮出所にしても、裁判のやり直しにしても、社会の安定に影響を与えないうちは是非行うべきだと思います。仮出所に関しては一度犯罪を犯した人にだって幸福になる権利はあるし、仮出所はその可能性を高めるでしょう。裁判のやり直しに関しては、より適切な刑罰を犯人に与えることで冤罪や冤罪に類する裁判の間違い、例えば不当に重い判決、不当に軽い判決、を排斥するという意味で役に立つと思います。しかしそれが社会に迷惑をかけている、あるいは将来迷惑をかける可能性があるという事であれば、ぜひそれはやめるべきだと思います。

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社会の安定化に資する場合、犯罪者の権利は積極的に縮小されるべきである

本書ではディックが犯人であることは疑いようのない事実だったので、ディックの裁判やり直しの要求も悪あがきと退けることができますが、現実ではそうはいきません。その人が犯人かどうかを本当に知ることはできないというのが現状の司法の限界だと思います。ですから、冤罪の防止は犯人の人権とは別の難しい問題です。

 

■復讐

本書では死刑を復讐ととらえる旨の犯人の供述のシーンがあります。

ところで、死刑について何か意見はあるかい?俺は別に反対じゃねえんだ。死刑は復讐ってことに尽きるが、復讐の何が悪い?

実際に殺人事件で縁者が殺されたとき、上記のような心理状態になる人は相当数いると思いますし、自分もそうならないと言い切ることはできません。人を殺すという行為によって深い傷を負ったものが、人を殺すことを意図し夢想するというのは大いなる皮肉だと思います。

しかし、死刑は復讐のためにあるのではありません。ほかの法制度と同様に、社会の安定化のためにのみ存在していると思います。死刑によってその犯人の再犯率は0になりますし、死刑執行のニュースは新たな犯罪に対する抑止力になります。法律は社会の安全とさらなる安定化に責任を持っていますが、事件後の被害者家族の心の安寧に関しては何の責任も負っていません。被害者家族の心の安寧は被害者家族自身の問題であって、犯人に復讐するだとか(この場合法律によって罰せられます)、被害者救済の会に入会するとか、宗教に入信するとか、そう言った方法で彼らが自らの行動で解決していくほかないと思います。

 

社会の安定化に資する場合、犯罪者の生命と安全は損なわれて然るべきである

 

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