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おばあちゃん

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

この作品は、一年ほど前になんかのコンテストに応募して落選した時の短編です。ではどうぞ↓

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 


■1

 長い休職期間の末に退職を決め、特に次の仕事の当てもなく、しかし一人暮らしでは生活リズムが狂うので実家に帰った。一時間に一本しか走っていないJR線の、私鉄との結節点に当たる駅で、私の乗る電車は乗り換えの客を待って停車していた。

 乗客が入ってくる度に電車のドアが開き、畑で何かを焼いたときの焦げた臭いと、堆肥の不快な臭いが車内に入ってくる。学生の頃はこの臭いの中、寒さに震えながら1時間電車を待ったこともあった。結節点の駅のそばというのに見渡す限りの田と山が広がり、その中にぽつんと一軒真新しい老人ホームが建っている。

 臭いがきつく、思わず鼻と口をコートの袖で覆った。


■2

 実家につく頃には辺りはすっかり暗くなって、街頭もない勝手口までの道はスマートフォンのライトを使わなければ闇に包まれ歩くこともままならない。呼び鈴がないのでいきなりドアノブをまわし、中に入ると、ごちゃごちゃした土間の奥の茶の間に、母がいるのが見える。

 「おかえり」

 母は私を認めると声をかけた。

 「ただいま」

 先ほど結節点の駅でかいだ焦げた臭いが家の中でもしているような気がして、しきりに臭いをかぐ。

 「いまおばあちゃんが入院してて、明日暇ならお見舞いに行ってくれない?」

 と母が言う。

 言われるまで忘れていた。祖母が手術を受けるために入院していたのだった。両親は私と私の兄弟がなかなか家に顔を見せないことで、祖父からよく叱られている。祖母が入院しているというのに兄弟は誰も見舞いに来ないということになればさぞかし肩身が狭かろう。私は両親を不憫に思い、

 「ああ、いいよ」

 また特に予定もないので、そう答えた。


■3

 昨晩は、実家の慣れない寝床でよく眠れず、結局漫画を読んで徹夜してしまった。頭が重く、やたらと目が乾く。都会の生活ではまず起きていない時間に電車に乗って、祖母の病院まで行くことにした。駅までの道を歩いていくうちに、徹夜で疲れてはいても気持ちはすっきりしてきた。田舎の冬の朝はよく晴れていて、朝の澄んだ日差しを受けた故郷の景色と新鮮な肌寒さが心地よい。電車からバスへの乗り継ぎは寝過ごしそうになったものの、バス停から病院までの道のり、祖母の病室への行き方は下調べしていたのですんなり辿り着いた。病院の受付で簡単な訪問票を書いて、病室のドアをノックする。

 「はい」

 よく知った祖母の声が中から聞こえた。


■4

 祖母は病室のベッドのふちに腰掛けて、本を読んでいた。術後という割には元気そうだが、目の前にいる祖母は想像していたよりも一回り小さかった。逆に、この現実より一回り大きい記憶の祖母は、祖母と顔をつき合わせて暮らしていた幼い頃の記憶のせいだろうか。私が祖母の背丈を抜いたのはいつごろだったろう。幼い頃、冬もめったに雪が降らない実家の庭で、初めての雪にはしゃいで作った雪だるまが、翌朝見ると溶けて縮んでいたっけ。不意にそんなことを思い出した。祖母は私を見ると破顔し、病室横のソファに座るよう促した。

 「よく来たねえ。仕事は休み?」

 「時間ができたから見舞いのために休みを取ったんだ。手ぶらでごめんな」

 嘘をつきつつ、ベッド脇に菓子折りがあるのを認めて手ぶらであることを謝った。

 「そんなの気にしなくてもいいよ。よく来てくれたねえ。お菓子食べる?」

 ご馳走になったお見舞いの品は、ホワイトチョコレートだった。孫の訪問を喜ぶ祖母と話しながら、口に入れると、たちまち舌の上で溶け、甘さに変じた。

 「大輔は実家に帰ってこんかねえ」

 「実家で暮らすには手に職がつかないと難しいな」

 祖母はしきりに実家に帰ってきて暮らすように促した。


■5

 …実家!

 私は高校卒業と同時に、実家の閉塞感から抜け出したくて一人暮らしを始めたのだった。祖父の我儘が猛威を振るい、居間に祖父が居座って、つけっぱなしのテレビがいつもうるさく鳴っている実家が嫌いだった。祖母はいつも祖父に従って、世間体を気にしながら暮らしていた。お互いが快適に暮らしていくために、暮らしの中のルールを決め、それを改善していくための話し合いに頑として応じようとせず、逆に話し合いを求める私を自分勝手だと小言を言っていた。人をもののように扱う過去の家父長制の残光のような祖父と、決して従来のやり方を変えようとしない頑迷な祖母が嫌いだった。


■6

 実家を出て一人暮らしをすると、快適になる一方で、実家を嫌った自分の感情や実家そのものの状況に距離を置いて、余裕を持って見られるようになった。

 共働きの両親に代わって、祖母はいつも家族の御飯を作って、いい加減な味付けを指摘しても直ることはなく、私は時々祖母の料理を残していた。一人暮らしをして、料理にはよく苦労した。インターネットで見たレシピはてんで当てにならず、味付けを失敗してもなぜか料理を捨てることには抵抗があって、我慢して全部食べていた。祖母は自分の作った料理を孫に残されて、それを捨てるとき何を思ったろう。幼い私に合わせていつも特撮ヒーロー番組やアニメの番組を一緒に見てくれてるのも祖母だった。学校や塾に送ってもらうとき、車の中は家と違う芳香剤の匂いがして、カーステレオからは演歌が流れていた。自分の予定もあるだろうに、当たり前のように子供の遊びに付き合って、週に何度も車を出してくれた祖母に、一度でもお礼の言葉をかけただろうか。私にとって実家での暮らしは、苦痛ではあったが所詮は家を出るまでの辛抱だろうということは、物心ついた頃にはわかっていた。しかし祖母はその実家で一生暮らすのだ。強権的な祖父や、何かにつけて文句ばかりで恩知らずの孫と暮らして、祖母は何を思っていただろう…


■7

 結局会っていたのは30分ほどであった。帰りのバスを逃すと一時間待ちになるので帰ることを告げると、祖母は自分の前に置いたお菓子を持たせてくれた。空腹だったので帰りに食べようと、思わず受け取ってしまう。病室を後にして、小走りでバス停まで行き、次のバスまで45分の空き時間があるとわかった。バスを降りて病室に向かうとき帰りのバスの時間を見間違えたようだった。

 帰りのシャトルバスの時間までにはあと40分あるとわかっても祖母の病室に戻ろうとは思わなかった。バス停にあるひんやりした石のベンチに腰を下ろした。病室に長くいれば、祖母の友好的な態度が降り積もった雪のように解けて、その下から昔の頑迷な態度が黒土のようにのぞくような気がした。実家で一緒に暮らしたいという祖母の願いは、現実的にかなえられないし、また一緒に暮らしてしまうと昔のように、祖母は私に、私は祖母に苛立ち始めてしまうだろうと思われた。大気中を漂っている雪の欠片が、手に乗せたとたん溶けて一滴の水に戻ってしまうように、祖母の願いは日常の前に原形をとどめられないだろう。

 祖母の願いを知りながら、それを叶えずに、たったの30分だけ見舞いに行くことが孝行と呼べるのだろうか…。

 どうにもならないことをひとしきり考えて、自分がひどく狭量な人間に思えてきた。祖母からもらったホワイトチョコレートを舐めながら見上げた空、雪がめったに降らないこの地方の空は、やはりからりと晴れていた。