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『心が叫びたがってるんだ』

拝啓、読者諸賢におかれましては、性の喜びをお知り遊ばされていることと、御恨み申し上げます。

 

昨日実写公開記念として地上波初放送された上記作品は、アニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(略称「あの花」)のスタッフが再集結して製作されたものです。「あの花」は魅力的なキャラクターと神秘的なシナリオ、美麗な映像が魅力の良作ですが、やはり本作も実績あるスタッフによる安定感が感じられる素晴らしい出来でした。

 

■山の上のお城と卵のモチーフ

 

まず冒頭のシーンで、主人公「成瀬」の幼少期、夢見がちな少女だった時に山の上のお城にあこがれていたこと、そのお城は実はラブホテルで、そこから不倫相手と一緒に出てくる父を目撃して、そのことで両親が離婚に至ってしまい、父から不倫をばらしたことについて心無い非難を浴びせられてしまう(不倫する人は言うことがやはり一味違いますね)という筋書きは非常に引きがあります。少女のあこがれのお城は実はラブホテルであったという皮肉、父の言葉を受けたショックから成瀬の抱いていた夢は、「玉子の妖精」という形で歪に像を結ぶようになり、その玉子は点を隠すと王子になる(玉子→王子)というのもまた面白い皮肉で、非常にセンスがあると思います。

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王子のような玉子とお城のようなラブホというセンスあるモチーフ

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■カッコイイ野球部

 

そんな暗い過去を抱えた成瀬がそのあといろいろあって(後述します)ミュージカルに打ち込むようになるのですが、それはさておき、ミュージカルを一緒にやることになる野球部の「田崎」とその周辺の野球部の面々が超カッコイイです。田崎はケガによる不調で野球部の活動がうまくいかず、その八つ当たりで当初ミュージカルに非協力的で、初見では弁明のしようがない荒れっぷりを呈しているのですが、そのことで他の実行委員会である「坂上」から人格否定のような非難をされた際に、野球部の仲間でありクラスメイトの「三嶋」が坂上に本気で食って掛かるシーンが素晴らしいです。

 

どう考えても言いがかりで絡んで輪を乱す田崎の方が悪いのですが、そんな理非が一時的に目に入らなくなり、我を忘れて友人のために怒る三嶋の行動は、彼の田崎への信頼の厚さ、友情の深さが理性を越えている様であり、男の友情のダンディズムを浮き彫りにしたいいシーンだと思います。

 

あと後輩である一年生エースの山路もシブいです。田崎は自分がケガで野球をできない苛立ち、焦りから、チームの練習に参加し厳しい叱責をして、後輩たちから煙たがられていますが、山路は同級生たちの田崎への陰口には積極的に参加せず、逆に陰口を言っている現場を押さえられたときに慌てて詫びを入れる同級生たちとは対照的に、先輩である田崎に猛然と食って掛かります。しかし後日自らの誤りを認め、謝罪に及んだ田崎に対しては、もう何も言わず、言葉少なに田崎のミュージカル実行委員の仕事を手伝ったり、ケガの具合を心配したりします。意固地にならずに謝罪をした田崎もそうですが、先輩に対して言うべきことは言いながらもそれに対し謝罪した先輩に対してはもう何も言わない山路のこの態度は最高にシブいです。

 

山路以外の一年生の士気が低いことは問題ですが、しかしこれだけ粒ぞろいの選手を擁するチームなら、甲子園を本気で狙えると思います。

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今年のチームは甲子園を十分に狙える素地がある

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■心が叫びたがっている、とは

 

成瀬は同じ実行委員である坂上への思いからシナリオを書きますが、坂上と他の実行委員「仁藤」とののっぴきならない関係を知ってしまい、根底の思いが揺らいで、今までの全部を投げ出しそうになります。主演の仕事を放擲して遁走した成瀬を坂上は追いかけ、廃墟と化した山の上のお城で成瀬は坂上に告白するというのが本作の一つのクライマックスなのですが、この告白に対する坂上の返事は意外にも

「依然としてノー」

なのです。

 

これが本作を他の有象無象のラブコメと明確に区別してる素晴らしい演出だと思います。他のラブコメなら、坂上が自分の本当の気持ちに気づいたとか何とか言って坂上と成瀬がくっついて、ミュージカルも最高にうまくいってハッピーエンドというシナリオになるんじゃないかと思います。こうすると坂上と仁藤の関係にあった過去との整合性が若干厳しくなりますが、作中人物への視聴者の感情移入ということを考えると、圧倒的に成瀬>仁藤でしょうし、基本的にはラブコメでは論理や文学性というような要素からの要請よりも、圧倒的に「ラブ」からの要請が強いので、それらのことを考えると成瀬の恋が実って終わり、というのはいかにもラブコメ的なラストであると言えます。

 

然るに本作ではラブからの要請は退けられ、結局成瀬の恋は実らずに終わります。それはなぜか。それはこの作品があくまでも「ラブ」を主題にしたものではなく(ラブは出てきはしますが)、「心が叫びたがっていること」を主題にした作品だからです。「心が叫ぶ」ということをわかりやすく言うと、強い思いを相手に伝えるべく言葉にする、という程度の意味になると思います。主人公の成瀬は、過去に自分の思いを相手に伝えようとしすぎて、手ひどく傷ついたトラウマを背負っています。望み薄な相手に告白という形で思いを伝えるという行為は成瀬の目には自殺行為に映るでしょうし、だからこそ成瀬はすべて投げ出して遁走したのでしょうが、そんな成瀬がやはり坂上に自分の気持ちを伝えたときに、彼女の心に残った悲しみ以外のサムシング(振られて気分爽快という人はいないでしょうからもちろん悲しい気持ちはあります)、それこそ本作の答えだと思います。成瀬に感情移入できた視聴者はそのサムシングを目の当たりにすることになります。

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本作の主題は「ラブ」ではなく、「思いを伝える」こと

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■まとめ

 

本作の最も重要なところは、最後の方に書いた通り、

思いを伝えること、思いを伝えて傷ついた時に心の中にある悲しみ以外のサムシング

です。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■ちなみに

 

不覚にも女子高生の成瀬に感情移入した成人男性の私が感じたサムシングを述べますと、それは実在感、「その場感」だと思います。自分の言ったことが相手に伝わり、相手を傷つけたり、逆に相手から傷つけられたということは、その場に居合わせないと生じえないことです。その場にいたとしても、ただ物理的にいるだけではだめで、言葉を尽くすなり、労力を払うなりして、相手と接点を持たないとそういうこと(傷つけたり傷つけられたり)はやはり生じえません。あるいは何か記録された文章やデータとなったそういう事実、例えば日記とか、映像とかになったそういう現場のシーンは、それなりに思い出を想起はしますが、それは思い出であって体験ではなく、そこにはもうやはり実在感はありません。実在感はその場限り、一度限りのものです。だから口で実在感について説明することは意味がありません。実在感はその性質から言って口で説明できないものなのです。だから実在感を伝えるときにはこういう映像作品による疑似体験というアプローチが最も適切か、あるいは唯一の方法であると思います。そしてその疑似体験の結果生じたものは、悲しみ以外だと「今自分がここにいて、相手とのかかわりから何かを感じているんだ」という感覚でした。

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思いを伝えて傷ついた時に心の中にある悲しみ以外のサムシングは、実在感である

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

さっきから言及している作品はこの作品です↓

 

 

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敬具。