join the にほんブログ村 小説ブログへ follow us in feedly

『読書について』(著:ショーペンハウエル、訳:斎藤忍随)

本読みました。『読書について』(著:ショーペンハウエル、訳:斎藤忍随)

■総評

読書という営みそのものへの興味は、読書家に共通のものだと思います。日本人は幼いころから読書をすることが教育的に(学校教育への寄与という点において)善とされている風土で育っているので、読書をするときの自意識として、「寸暇を惜しんで本を読んでるぼくちゃん偉いダロ」的な感情が多かれ少なかれあることは確かだと思いますが、そんな人にとっては本書はかなりショッキングというか、パラダイムシフトな内容になっていると思います。

f:id:zizamo2193:20170715115804p:plain

読書家の驕りを戒める本

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

 

■著者について

 

本書の著者ショーペンハウアーは、「厭世哲学者」とよばれ、かなり否定的、批判的な意見を述べることで有名な哲学者です。本書でもその性格がいかんなく発揮されていて、その対象は、本書執筆時のドイツ文筆業界の腐敗にはじまり、ドイツ語自身の堕落、無自覚な読者へと続き、果ては『翻訳』という職業を批判して本書の訳者である斎藤忍随氏があとがきでビビりまくって謝罪するという異例の事態に発展しています。

f:id:zizamo2193:20170207231635p:plain

訳者があとがきで謝罪する異例の事態

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■本書のポイント

 

訳者が訳した訳書をさらに要約するなどはもはや悪魔の所業で、ショーペンハウエルもブチギレ必至でしょうが、まあその辺はみんなちがってみんないいってことでざっくり本書の要点を述べます。

 

  - 読書はエラクない

 

読書は、人にものを考えてもらうことである。

 

というのは、本書からの有名な引用で、これに類する格言としては、

 

読書は、思索の代用品に過ぎない

読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない

などが見つかります。受け身な読書はダメで、自発的な思索や経験(に基づく感動)はオッケー、というスタンスみたいです。読書と思索の関係については、

読み終えたものを一切忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。…肉体は肉体にあうものを同化する。そのように誰でも、自分の興味を引くもの、言い換えれば自分の思索体系、あるいは目的に合うものだけを、精神のうちにとどめる。

という部分に端的に表れています。読書を契機にして何かの視点や、思索のとっかかりを得られればよいという事でしょう。以前本の読み方を紹介する記事を書いた時に、「本の言いたいことを全部拾うのではなく、自分に響いたものだけを拾う」というような意味のことを述べましたが、それもおなじで、これはほんとにそうだと思います。

f:id:zizamo2193:20170228225335p:plain

読書よりも、個人的な思索や経験の方がエライ

 

  -出版業界の馴れ合い許さん

  -最高にイケてる言語であるドイツ語を改変するの許さん

 

この昨今の出版業界と言語改変の風潮をショーペンハウエルがシバきまくる下りがかなり長いです(笑)。ここの内容はあまり汎用的なものではなく、現代日本人にとって得るものが少ないために体感としてそう感じるというのもあると思いますが主観的なことを言うと本書の半分くらいこれです。同じこと100回ぐらい言ってます。カッコイイレトリックを駆使して世の中をシバきまくるというのは見方を変えたら割と面白いと思います。

 

無駄に長い出版業界、国語業界叩き

 

現代日本でいうと、本の裏表紙に書いてある「青春スポーツ小説に新風を注いだ渾身のデビュー作!」「これはショーネンがまだチチを見棄てていない頃の美しい親子の物語」みたいなアオリが一ミリも当てにならないという事でしょう。裏では出版業界内の仄暗い取引もあることと思います。本の専門家である出版業界の人がそんな調子だったら何を指標にして本を選べばいいの?ということになりますが、本書で示されている本の選び方は下記の通りです。

 

  -古典を読め

 

ショーペンハウエルの読書についての明快な意見は「古典を読め」ということです。

彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、誰にでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。

の部分からもわかる通り、盲目的にでも古典を読むべきだそうです。読んだらわかるという事なのでしょう。

いつでもその辺に掃き捨てるほどいる作家の新刊ものを、しょっちゅう彼らは読まなければならないと思っているのである。その代わり、史上に残る稀有の天才の作品はただ名前だけを知っておけばよいとしている始末である。

彼らは新刊書でありさえすれば飛びつき、偉大なる精神から生まれた古典は、書架に死蔵しておく。

のあたりの批判は、確かに思い当たる節があって面白いと思います。

f:id:zizamo2193:20170112202048p:plain

古典を読め

 

  -新刊を読むな

 

正しい読書の条件として「古典を読め」とともに挙げられているのが「新書を読むな」というものです。読書という営みが、それなりの労力を要するものだということは、読書家諸賢にとっては周知の事実だと思いますが、新書を読む時間や労力は、古典を読む時間や労力を食いつぶすというのが本書の主張です。

読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

 

時間がもったいないから新書は読むな

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■本書のポイント -番外編-

 

  ☆

 

本書の本論から若干逸れた話題で超カッコイイ格言があったので紹介します。

怒りを欠くものは知性を欠く。知性は必ずある種の「鋭さ」を生む。鋭き感覚は生活においても、芸術、文学においても、ひそかな非難と侮蔑を呼び起こす幾多の事柄に日々に必ず出会う。

これは天才が社会になじめないことが多い現象をよく説明した格言だと思います。頭がよすぎると普通の人が気づかないか、スルーできるレベルの矛盾や虚飾が耐え難いレベルで意識されてしまうというのは確かにあると思います。これすごい分かるわー。

 

f:id:zizamo2193:20170715115936g:plain

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

今回紹介した本はこちらです。

 

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆