『ゼロ・グラビティ』
映画観ました。『ゼロ・グラビティ』
摂氏125度からマイナス100度の間で変動する温度、音を伝える空気も、酸素もなく、90分ごとに襲ってくるスペースデブリの群れという極限状態の宇宙で、地球への生還を目指す宇宙飛行士の孤独な戦いを描いた作品です。
■舞台設定の意味
この過酷な舞台設定は、主人公「ライアン」の人生の暗喩という構造になっています。主人公のライアンは、娘の不慮の事故死を車の運転中に聞き、それ以来仕事から帰ってドライブしかできなくなっている、絶望的で不幸な境遇にいる女性です。心が壊れかかっている彼女を取り巻く状況は、か細い命綱を離してしまうと何もない虚空を永遠に漂流することになる宇宙空間のようで、本作の舞台設定が彼女の生から遊離しかかった人生を上手く表現しています。
過酷な舞台設定は、過酷な人生の暗喩
■本作における宇宙の位置づけ
主人公には最初仲間である先輩宇宙飛行士のマットがついています。彼はおしゃべり好きでユーモラスな性格ですが、非常時には冷静沈着で、ライアンを最初の宇宙事故から救い、一緒にISSの目前までたどり着きますが、もはや二人は助からず、自分があきらめることによってライアンは助かる可能性が出てくると判断し自ら命綱を離し、死を選びます。
このマットというキャラクターは、絶望の淵にいるライアンにとって非常に意味のあるキャラクターで、その意味はライアンとマットの宇宙に対する考え方の違いに如実に表れていると言えます。ライアンは宇宙の環境に何度も危機的状況を齎され、宇宙を「大嫌い」と評しますが、マットは、宇宙で孤独に死ぬことが決まっても宇宙から見えるガンジス川の日の出の美しさに感動しています。この作品において、宇宙が破壊と死を齎す無慈悲で残酷な側面と、感動するほど美しい眺めを見せる雄大で神秘的な側面の二面性を持っていることは極めて示唆的です。またこの作品が、その二面性が強調される形で物語が進行していく(ライアンを死の危険に陥れる絶望的状況が、地球に表れた画面いっぱいの荘厳なオーロラの美しい眺めを背景に展開されている箇所などはその典型で、これに類する演出が随所で見られます)という仕掛けは、この作品の言わんとしていることを端的に表した演出だと言えます。
破壊と死、神秘と感動をもたらす宇宙の二面性
■ライアンとマットの再会のシーン
本作で言わんとしていることがストレートに表現されたシーンがこの、マットと別れた後、ライアンが何度目かの絶望的な状況に陥り、自ら死を選ぼうとしたとき、宇宙船の外からマットが帰ってくるシーンです。マットはライアンに状況を打開するヒントを示した後、死のうとするライアンにいわく、
地球に戻るか?
ここにいるか?
ここは居心地がいい
あらゆるシステムをシャットダウンし…
明かりを消す
目を閉じ心も閉ざす
傷つける者はいない
安全だ
生きる意味がどこにある?
娘は死んだ
これ以上の悲しみはない
だが問題は今どうするか
もし戻るのならもう逃げるのはよせ
くよくよせず”旅”を楽しめ
大地を踏みしめ自分の人生を生きろ
この会話が本作の核心であり、のちにライアンが、あきらめかけた自分の人生を取り戻せるきっかけになっていきます。
旅を楽しめ
■地球への帰還
ライアンは何度もの危機的状況を乗り越え、ついに地球にもどった後、ラストシーンで地面に倒れながら「ありがとう」といいます。私はこの言葉は、重力に対するありがとうなのではないかと思います。本作の原題は「GRAVITY」(重力)であり、大きな悲しみに打ちひしがれ、生きるということから浮遊しかかっていたライアンが、再び自分の生に執着し始める様は、無重力の宇宙から命からがら地球に帰ってきて、「GRAVITY」によって地球に絶えず引き寄せられしばりつけられて生きていくライアン、あるいはもっと広く人間という種の生きることのありさまを示唆的に表現していると思います。
重力は生への執着の象徴
--『ゼロ・グラビティ』まとめ--
要するに本作は、
一人の絶望に沈む人間が、その絶望の淵から立ち上がり、絶望的な状況をも含めて自分の人生、自分の生きる世界の美しさを楽しめるようになっていく、人間再生の物語
です。
今回紹介した作品はこちらです。