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モーパッサンの短編にみられる逆説的表現について

モーパッサン短編集1-3を通しで読んで、「逆説的な表現」がよくつかわれているということに気づきました。

 

■貧乏の表現

例えば、貧乏を説明するときに、貧乏で生活が苦しい様を描くのではなくて、逆に貧乏な家庭がたまのハレの日に奮発して彼らなりにスペシャルな料理を食卓に並べた様を描いていて、これが直接的に貧乏を描写する以上に効果的に貧乏を説明している、という箇所があります。

 

例えば『田園悲話』において、

 

 

日曜日には、スープにちょっぴり肉が入るのだが、これは子供たちにとっては大ごちそうだった。父親もこの日にはいつまでも食卓にへばりつきながら、繰り返して言う。「毎日こんなのにありつけるとありがたいのだがなあ」

 

あるいは、『首かざり』において、

 

夕飯のときなど、三日も洗わないテーブル掛けのかけてある丸いちゃぶ台の前に座ると、差し向かいの夫が、スープ鉢の蓋を取りながら、「いや!こいつはうまそうだ!こんなスープはめったにありはしないぞ!……」などとうれしがろうものなら、すぐに彼女は空想せずにはいられなかった。ぜいたくな晩餐のこと、磨き上げた銀器のこと、また壁掛けには、妖精の森を背景にして、昔語りの人物や、めずらしい鳥の模様が刺繍されていること。それからまた、みごとな器に盛って出されるおいしい料理のことを思う。さては、紅鱒のバラ色の肉か、雛鳥のささ身あたりを食べながら、謎めいた微笑を浮かべて、喋々喃々と語り合う場面を空想してみたりする。

 

これらの表現がなぜ効果的なのかということを考えることは、貧乏の本質を考えることになります。貧乏とは、物理的にお金がなくて衣食住が満足に供給されないというだけではまだ完全ではなく、その状態が継続したことによって、その人にその状況を当然と考える生活態度が定着した時に完成を見る性質をしている、ということができます。上で紹介した質素なスープをありがたがる、うれしがる、というのはまさにこれで、というのもこの態度は、要するにそのレベルの料理が食卓に並ぶことを当然と考えていることの表れだからです。

 

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貧乏は、それを当然と考える生活態度が定着した時に完成する

 

逆に、精神的な豊かさにテーマを置いている作品としては、芥川龍之介の『煙管』があります。この話は、ある大名が純金の煙管を自慢にしていて、その大名にある坊主が、その煙管をただでくれるようにお願いしたところ、意外にもあっさりくれたという話です。金の煙管で当の大名が自慢したかったことというのは、「自分はこんなにお金持ちなんだゾ」という事なのですが、それならその煙管を大事にしすぎるのはかえって逆効果です。なぜなら、その態度はそういう品がめったに手に入らない貧乏人の態度だからです。金の煙管を自慢しようと思ったとき、その究極の方法は、金の煙管を手放すことであるという逆説的な真理を突いた作品です。

 

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貧乏な中で何かを得ているときが最も貧乏らしく、豊かな中で何かを失っているときが最も豊からしいという逆説

 

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■戦争の表現

戦争の悲惨さを表現するときに、市民や農民にその代弁者の役割を持たせた作品がいくつかありました。彼らはみな一様に朴訥で、うまくしゃべれず、それでも平和を愛する一市民として戦争に対する憎悪の念は持っていて、戦争に対してささやかな抵抗、村に来た「プロシャ兵」を殺すだとか、戦争全体から見ればささやかな抵抗をするのですが、そして最後にはプロシャ兵に殺されてしまう、という筋書きになっています。

 

沈黙のうちに彼らの命を懸けた行動によって黙々と主張される平和への希求が、下手な弁舌よりもよほど雄弁であり、また彼らの死は非常に克明に描かれていて、その死をもたらした戦争に陰惨な印象を与え、また作品のカラーを悲愴なものにしています。この朴訥な人たちに代弁者をさせるという表現が非常に逆説的です。

 

例えば『二人の友』は、釣りをしていた小市民の二人が、スパイに間違われ哀れにも銃殺される話ですが、彼らはプロシャ士官の前に引き立てられ、スパイの知りうる内部情報をリークするように脅されたときに、申し開き一つせずに沈黙を貫くという方法で戦争に対するささやかな抵抗をします。

 

士官は号令をかけ始めた。兵士たちは銃を上げた。そのとき、ふと、モリソーの視線は、河沙魚のはいった魚籠の上に落ちた。二、三歩離れて、草の上に、放り出されている。

一条の陽光が、まだ動いている、積み重なった魚にあたって、きらめいていた。すると、なんだか気がとおくなってきた。がまんしていたが、涙が出てしかたがなかった。

彼は口ごもって言った。「ソヴァージュさん、さよなら」

ソヴァージュさんも答えた。「モリソーさん、さよなら」

彼らは手と手を固く握りあったが、頭のてっぺんから爪の先まで震えてきて、どうにもしようがなかった。

 

彼らがドイツ兵につかまってから喋ったのは、この友に対する別れのあいさつの一言のみです。恐怖に打ち震えながらも、敵国士官尋問に対して弁解一つ、命乞い一つせずにいたのは、戦争に対する義憤、自分の置かれている危機的状況への諦念からかとは思いますが、このあまりに小さい抵抗と、そのあとの容赦のない死の流れが、戦争の凄惨さを効果的に表現していると思います。

 

あるいは『母親』において、息子戦死の報を受けた後、自宅に駐留している良好な関係であった敵国兵士を放火で殺害する「母親」、『ミロンじいさん』において、これも昼間は敵国兵士に好意的で従順な態度を示しながら、夜ごと変装して敵国兵士を殺害に行く「ミロンじいさん」と言ったキャラクターは、「しかえし」という方法で戦争に対する抵抗をします。このしかえしという単純な人間の心の動きがいかにもモーパッサンの描く農民的だと思います。モーパッサンの描く農民が、理想や論理よりもまず実際の生活を重んじるということは過去の記事で述べましたが、彼らは最初敵国兵士に宥和的な態度を示していることからもわかる通り、国が戦争をするときの大義名分、例えばナショナリズムとかそういった理屈には全く頓着していません。彼らが行動を起こすときは自らの人生の一部である家族を奪われたときであって、そこには自らの行動が引き起こす破滅的結末への顧慮も、復讐が復讐を呼ぶという原則に対する心配もなく、ただ被害を受けたときに仕返ししたく思うという原初的な欲求があるだけです。この点が彼らの行為を朴訥な、寡黙な印象にしているのだと思います。

 

彼らの敵国兵士の殺害の後には、彼らの述懐のシーンがありますが、どちらもやはり「しかえし」であることを強調します。

 

…「こちらの方が、あの人たちの名前だが、みんなの家に一筆書いてもらおうと思って」と、付け加えた。そして、自分の肩をつかんでいる士官に、その白い紙を落着きはらって差出しながら、ふたたび言った。「ありのままを書いてくださいましな。このわしがしたのだと、親御さんに言ってくださいましな。『蛮家』のヴィクトール・シモンがしたのだとね!どうか忘れずに……」(『母親』より)

 

「…皇帝陛下の兵隊だったわしの親父を殺したのは、あんたがただった。そればかりじゃない、わしの末の倅のフランソワを、先月、エヴルの近くで殺したのもあんたがただった。わしは、あんたがたに借りがあったが、返してあげた。これで、あいこあいこじゃ」士官たちは顔を見あわせている。老人はふたたび言った。「八人が親父のためで、あとの八人が、息子のためだ。これであいこあいこというものじゃ」(『ミロンじいさん』より)

 

語り手が朴訥な市民、農民であること、言説を以てではなく、命をかけた行動によって主張していることが、これらの作品における表現をより感慨深いものにしていると思います。

 

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あえて朴訥な農民の行動に語らせるという逆説

 

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この記事を書くにあたって、読んだ本は下記の三冊です。

 

 

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