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『「友達いない」は"恥ずかしい"のか』著:武長脩行

本読みました。

『「友達いない」は"恥ずかしい"のか』著武長脩行

 

本書は、孤独でいられること、あるいは孤独の中で行われる精神作用を幸せに生きるために必要な活動と位置づけ、孤独の効用とその実践のためのヒントが記載されています。

 

 

■孤独と自己肯定の関係

 

まず孤独の効用の第一として本書で述べられているのが、「自己肯定」です。「心のままに生きる」「トータルな自分をまるまる受け入れる」というような言い方で本書では述べられています。しかし、孤独と自己肯定が直接的につながる、孤独を達成した際に自己肯定も達成されるというのは少々無理があります。自己を嫌悪しながら孤独のうちに生きることも可能性としては十分考えられます。

 

私は孤独な人間であることを自ら任じつつ楽しく生きていますが、そのライフスタイルを採用してから、確かに自己肯定感が増したと思います。これはなぜかと考えたとき、孤独な状態を経験することは、社会と自己の二者間の力関係を明確にするという作用をもたらすということが挙げられると思います。

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孤独な状態を経験することは、社会と自己の二者間の力関係を明確にする

 

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■刑法といじめ

 

自己と社会の力関係という文脈で孤独という言葉が使われると、まずその意味として、社会からの制裁として孤独の状態を与えられるということが想起されると思います。甲が自分勝手なふるまいをして、社会に迷惑をかけるということがあれば、社会はその自浄作用として、社会に害のある甲を何らかの形で取り除こうとします。これは社会制度上の刑法がその最たるもので、犯罪という反社会的行為に対して、社会はその行為主体を投獄という形で社会から排斥します。もっと卑近な例でいえば小学校や職場で見られる「いじめ」もそうです。国という単位の他にも社会は様々なレベルで存在していて、その構成員の了解に基づく限りある程度の裁量を有しています。小学校などはまだ教師という絶対的看視者の存在があり、社会の裁量がより限定的ですが、構成員の無知と原始性により超法的措置がとられがちですし、職場などはそういった看視者の存在もなく、自治の性格も非常に強く、その社会の在り方は構成員の良識と品格にゆだねられているので、現代日本においては必然的に数多くの超法的措置が生まれてきている現状があると思います。

 

投獄もいじめも行為主体に対して孤独を与えている点で共通しています。身体的精神的苦痛や、金銭的な負担を強いる場合でも、それらの罰則は行為主体の社会からの離脱あるいは行為主体の行動原理のうち、社会にとって不都合なものの放擲を促しているという意味においてそう言えると思います。

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社会から制裁として与えられる孤独

 

刑法やいじめといったものは社会から自己への働きかけのうち、極端なものの例です。普通はこれほど極端な措置がとられる前に社会と自己の間で調停がなされ、平和裏に問題が解決されることが圧倒的に多いと思います。その調停のなかでは孤独は、姿は見えないが隠然としてその威を振るう恐怖の対象として存在し、凡そ人間の社会的とされる行為の根源的な動機を形成する要素となっています。

 

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■社会からの制裁の限界

 

孤独は社会と自己の対立構造のなかでは社会から自己の方向に制裁の意味合いでもって与えられ、自己にとってはこのことは恐怖の対象であるということは先ほど述べました。しかし逆に言えば、社会からの制裁は、その孤独が限界であるということが言えます。処刑という方法で生命を奪う権限まで持っている刑法に関しては問題が複雑ですが、私もここで刑法にお世話になるレベルの話をするつもりはなく、ごく小規模ないじめや孤独という制裁を背景にした市民の社会的営みに的を絞っているということを断っておきますが、その意味でいうとこの孤独という制裁はかなり限定的です。学校や職場のいじめに関しては、転校や転職に対してはその効力を完全に失いますし、孤独という制裁を背景にした市民の社会的営み、調停や脅迫などと言った係累にたいしても、その社会からの離脱というのはワイルドカードになりえるのです。

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社会から制裁として与えられうるのは、たかだか孤独

 

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■孤独に対する恐怖の一人歩き

 

社会からの離脱を選択することで社会からの束縛をすべて取り払えるという事実は、しかしあまり認識されていないように思います。孤独という制裁を背景にした調停の要請に対して、調停に応じるコストと、制裁を受けるコストを天秤にかけることをしていない印象です。この盲目的な束縛の受容という態度は当然自己否定的な色彩を帯びていて、その例は、生活のために芸術の道を諦めてサラリーマンになるだとか、家庭のためにアバンチュールを我慢したりだとか、枚挙にいとまがありません。

 

そんなとき、あえて自ら進んで孤独という状態を選ぶというのは、この態度へ一石を投じることになります。社会からの制裁を疑似的に体験してみて、その重みと自由さの両方がわかり、その見解は、それに比すれば本当は夢を諦めるべきじゃなかったとか、やっぱりアバンチュールは我慢すべきだとか、そういう風に考えられるだけの材料になります。

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孤独を経験することで、孤独に対する恐怖を再評価する試み

 

実は、この考察こそ本書の表題『「友達いない」は恥ずかしいのか?』という問いにつながってくるものです。然るに本書はここまでたどり着かずに終わっています。その意味で本書はその表題と内容が食い違っているのですが、おそらく正確さを期すよりも人目を惹くタイトルにしようという意図なのでしょう。『「友達いない」は恥ずかしいのか?』という問いはテーマとして非常に興味深いのですが、本書の内容に即してまたの機会に考察することにします。

 

タイトルが不適切

 

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ご紹介したのはこちらの作品です。

 

 

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