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『モーパッサン短編集Ⅰ』(著:モーパッサン、訳:青柳瑞穂)

本読みました。

モーパッサン短編集Ⅰ』(著:モーパッサン、訳:青柳瑞穂)

 

訳者である青柳瑞穂氏によるあとがきに、非常に的確なモーパッサン評がありました。

 

彼の師フローベールは、読書と思索に、己の資源を求めていたのに反し、モーパッサンは生活そのもののなかに求め、生活の沼から手づかみに泥をすくいあげて、それをそのまま原稿用紙の上にぶちまけたという感じだ。

 

これが非常に言い得て妙で、作品の中には日常風景のただのスケッチにとどまるような、いわゆる「オチがない系」のものが割とあります。道で紐を拾ったことで泥棒と間違えられ、それが名誉と意地の騒動に発展する『紐』、資産家の独身老人の遺産を目当てに、その家に娘をバイトにやる『木靴』などはまさにそうで、それ単発で読んでも意味が通りにくいです。その意味ですべての短編がよく練られていない、荒削りの印象があるのですが、そんな日常の風景の中にふいに感動するような自然の描写や登場人物の心の動きが現れ、これが読み手に取って非常な感動をもたらします。自然体な作風ゆえに、その美が全くの偶然に、ありのままの姿で(作者が意図していたかどうかは定かではありませんが)描写されていると読み手は感じます。

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荒削りな作品の中に不意に現れる美

 

特に面白かった作品は、『アマブルじいさん』、『悲恋』、『椅子なおしの女』の三篇です。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

 

■アマブルじいさん

 

この作品は、自分の親族ではない息子の妻と、妻の連れ子に、自分の家の食糧そのほかの出費をかけるのを嫌がって結婚に反対しているケチな老人「アマブルじいさん」にまつわる話です。じいさんの反対を押し切り息子は結婚し、じいさんとの和解をしないまま死んでしまいます。じいさんは悲しみに暮れ、他人である息子の妻と暮らしているのですが、ある日息子の妻は自分の連れ子の父に当たる小作人と結婚し直そうとし、家に連れてきてそこにそのまま住まわせようとします。自分の家のなかが他人ばかりになってしまったことに絶望したアマブルじいさんは、首を吊って死ぬ、という筋書きです。

 

妻が小作人を連れ込んだことを、アマブルじいさんは祭りから帰ってきて初めて知るのですが、この祭りから絶望に至る部分の描写が非常に印象的です。祭りでは、普段陰気でケチなアマブルじいさんが、何となく愉快な気分になり、村の知り合いと気分よくブランデーを飲み、軒を並べる娯楽屋を気分よく見て回ります。そして祭りも終わりに近づき、ほのぼののんびりとした春の宵に家に帰ると、そこにあるのは不愉快な衝撃と絶望というわけです。

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もうだいぶおそい。夜になろうとしていた。誰か近所の者が、注意して言った。「とっさん、ぐずぐずしていると、シチューに遅れるよ」そこで、家の方へ足を向けた。ものやわらかな闇、春の宵にありがちな、ほのかにあたたかい闇が、静かに地上に降りてきた。

祭りとその終わりはいかにも心楽しく、好ましいものとして描かれていて、それだけにそのあとのじいさんの絶望が読者に深く印象付けられる仕組みになっていると思います。

 

楽しく穏やかな祭りから帰った後の絶望

 

モーパッサンの作品においては、農民は総じてケチで貪欲なものとして描かれているようです。訳者によるあとがきにもその旨の分析がありましたし、他の作品でもそのような描写は随所で見られます。この作品も、じいさんの懊悩の種は彼の貪欲であって、その意味でこの貪欲というモチーフは本作の主題である「絶望」の根本的な原因であり、前提であるという構造をとっています。また旦那方の親族の反対を押し切って恋愛結婚に踏み切ったものの、夫の死後実際の生活を営んでいく上で、男の家長が必要になり、あっけらかんと昔の男を死んだ夫の家に迎え入れる妻、という妻の態度も非常にモーパッサン的で、これも結局貪欲と根を同じくする現象だと思います。というのも、農民たちの至上命題はまず生きていくことなのです。恋愛や理想、節操といったものは、なんのかんの言っても結局さしあたりの生活に困らないことが確信できる貴族的な価値観であって、実際の生活の問題、自分と家族が継続的にご飯を食べて行くということに、理想や美がどうしようもなく膝を屈する様が悲しいようでもあり、力強いようでもあり、またそんな生活態度が生み出す様々の心の動きが、信念や理想に乏しい現代日本人の有り様とどこか重なるようで、この「貪欲」というモチーフはモーパッサンの作品に共通した味になっていると思います。

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どこまでも即物的、実際的な農民

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■悲恋

 

この作品は、老いた画家が若かりし頃に、画家修業で訪れたとある田舎の宿にてイギリス人の敬虔なクリスチャンの老嬢「ミス・ハリエット」と出会い、彼女が画家に対する恋破れて自殺に至る話です。画家は修行と称して気ままな旅をして、滞在する土地でやはり気ままに女性と関係を持っている色事師で、そんな彼にとって彼女は、他の土地で関係した若いだけの有象無象の田舎娘たちとは一線を画する独特の心象をもたらすのですが、その画家の得た心象がハリエットの「片言の仏語」というモチーフで非常に効果的に描かれています。イギリス人であることに由来するこのハリエットの特徴は、恋に不器用な老嬢というキャラクターの滑稽さと無垢さを非常な印象として読み手に与えます。

 

とうとう、ある日、彼女は勇気を出したのです。「わたくし、見たく思います。あなた、どんな風にして絵を描くのか?かまいませんか、わたくし、たいへん興味あります」言いおわると、真っ赤になってしまいました。まるで口にすべからざることを言ったあとのようなんです。

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片言言葉が恋に対する不器用さと無垢さを効果的に表現

 

画家が宿の使用人の女とたわむれにキスしているところをハリエットが目撃してしまい、画家と老嬢の関係は終焉を迎えます。彼女が飛び込んだ井戸から引き上げられるシーンではその死体がおどろおどろしくも克明に描写されていて、画家は衝撃に茫然自失の体で彼女の骸のそばで夜明かしをし、やがて彼女の変わり果てた唇にキスをする、というラストです。老嬢の死体というタブーに近い情景すらも描き切って、あまつさえその骸に口づけをするという方法で、恋愛関係による男女のつながりの本質が見事なまでに抉り出されています。荒削りで衝撃的でありながら、純然たる美に属する恋愛という現象の本質を含んでいる傑作だと思います。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■椅子なおしの女

 

被差別階級に暮らし、椅子なおしで生計を立てる肉体労働者の女性が、幼い自分に上流階級の少年「シューケ」に恋をし、彼に会うたび、気を引くためにお金をあげる話です。シューケはやがて成長し青年になり、世間体から彼女のお金を受け取ることを拒否し、しかし彼女はシューケに渡すためのお金を貯め続けます。彼女は死の間際までお金を貯め続け、シューケにそのお金を渡すよう遺言を残して息を引き取ります。シューケはこの話を死を看取った医者から聞いた時激高し、怒りに駆られて席を立とうとしますが、残された金の額を聞いた途端宥和的になり、彼女の残した馬車まで含めて受け取るという話です。ストーリー構成としてはありがちなのですが、椅子なおしの女性が恋愛感情を表現するために用いた手段が「お金」であるというところがこの話の面白いところだと思います。

 

(現代日本人のような)知識人階級の人たちなら、この贈り物は自分の恋愛感情を表現するにふさわしいか否かを考えることがあると思います。何かよさげな、見栄えのいい、プレゼントを贈った自己という存在を最も美しく表現しうる品物を贈りたいという願望が迷走した挙句、迷惑で不快な驚きに満ちたフラッシュモブのようなサプライズや、花束のような形骸的な品物、小指の爪ほどしか量のない高級ディナーをやらかしてしまった苦い経験は誰しもにあると思いますが、この作品はそんな肥大し滲み出たエゴに対するアンチテーゼとして在って、贈与という行為の本質を読み手に問うています。

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贈与という難解かつ深遠な行為

 

椅子なおしの女はお金を送るとき、そのお金が自分という存在を相手にどう想起させるかというようなことは考えていません。またお金を送るということが自分の実際の生活にどのような影響をもたらすかについても考慮されていません。ローリターンハイコストなお金という贈り物をそれでも彼女が選んだのは、幼い日のシューケ少年が、その贈り物で笑顔になったこと、その品物が少年を喜ばせるということの一事のみなのです。

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贈与という行為の至上命題が「相手が喜ぶこと」であるという、最も単純にして最も見落とされがちな事実

 

そんな彼女の原初的なまでに純粋な思いの静かな勝利が、最後のシューケ氏の宥和的な態度という形で印象付けられ、確固たる作者の意図が感じられる、力強い作品です。

 

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今回紹介した作品は下記リンクからご確認いただけます。