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浜辺の手

家族で海辺に旅行に行った時のことです。海辺の民宿に宿をとり、両親と弟二人と一緒に5人で砂浜に遊びに出ました。あいにく天気はどんよりとした曇りで、空には分厚く暗い雲、海は緑、波はわずかで、浜辺にはほかの客もまばらで、あいにくの状況でしたが、私たち家族の家は内陸にあり、海が珍しくて、はしゃいでいたように思います。私と二番目の弟、お守りの父は海に入って泳ぎ、母と末の弟は砂浜に立てたパラソルの下で休んでいました。

 

 

当時二番目の弟と私は折り合いが悪く、何かにつけて喧嘩していました。幼い子供にとって二年足らずの年齢差は相当なハンデのようで、口喧嘩でも取っ組み合いでもいつも私が勝っていて、また弟は学校の成績その他で私に相当のコンプレックスを持っていて、そんな生育環境で育った弟は、当時子供の私が見ても屈折しているように見えるという、今思うと不憫な子だったと思います。

 

海で泳ぎながら徐々に波打ち際から離れ、子供の私たちには足がつかないくらいの深さに差し掛かった時、「それ」は起こりました。私は突然頭に手をかけられ、押さえつけられて、海に顔を突っ込まれました。塩辛くて磯臭い海水が容赦なく口と鼻に入ってきます。「それ」は二度三度と断続的に続き、やがて終わりました。

 

最初の一回は不意を突かれた驚き、二回目は水の中で自由を奪われもがく苦しさと、それに対する強い憤りを覚えました。先に述べた弟との関係性から、当時の私は、「それ」の主犯を弟と断定しました。浮き輪につかまり海面から顔をあげ、海水を吐き、息を整え、精いっぱいの恨みのこもった抗議の目で弟を睨みつけました。

 

しかし弟の反応は当時の私にとって期待外れのものでした。のちの暴力による報復の恐怖に打ち震えることもなく、弟は、目が合って私を認識している以外は、ただ真顔でした。溜飲の下がらぬ私は、今度は同じ抗議の目で父を見ましたが、父は穏やかに薄く笑っていました。この反応も「それ」を目の当たりにした父の反応とは思えませんでした。本当に理不尽を感じたときに、言葉が出ないというのは当時初めての体験でした。認識と実際の状況の相違は、幼かった私を混乱させ、苛立ちと戦い、状況を理解整理しようと努力しているうちに、次第に気が萎えてしまい、陸に上がった後は弟を糾弾する意欲もうせてしまっていたのでした。

 

あの時私の頭を掴んで、恨みを込めて海面に沈めたのは誰だったのでしょう。私の頭髪に絡み、頭皮に食い込んだ五本の指、乱暴に流れ込んでくる海水の味、熱く雲の張った暗い空、そんなことを時々思い出します。