『サマータイム』佐藤多佳子著
本読みました。
小学五年生の「進」、彼の一つ上の姉である「佳奈」、進が仲良くなった近所の「広一」の三人の子供の視点でそれぞれの生活が描かれる短編集です。日常の出来事が子供独特の意味不明ながらも瑞々しい感性で描写され、雰囲気が素晴らしい作品です。全体のテイストとしては、勝ち気でハイステータスの女の子とその周辺の優男たちというキャスティングからもわかる通り、昭和の少女漫画のようなクラシカルな少女趣味の風情があり、そういうノリはあまり好きじゃないんですが、先に述べたように描写における感性の瑞々しさが美しく、その点は我慢できました。
先に述べたように基本的に雰囲気を味わう作品であって、意味をいちいち考えるものではないと思いますが、そういってると感想にならないので印象に残った描写のいくつかについて述べたいと思います。
■海のゼリー
これは、佳奈が作った塩辛いゼリーを進と広一が食べるシーンにある描写です。8月31日に、「青と青緑と緑」の色をした奇怪なゼリーを広一は海だと形容し、三人でそれを面白がって食べます。
何が終わろうとしているのか。夏だ。何を食べてしまったのか。夏だ。ぼくらは佳奈の作った、すごい味の小さな海を食べて、この夏を終わりにしてしまったのだった。
子供ならではの意味不明な儀式のワンシーンですが、その儀式の有り様が、子供たちにとって夏そのものである夏休みと、その最終日である8月31日にうまく重なって、祭りの後のような晩夏の趣を味わい深く描写していると思います。
■花の血
これは、佳奈が摘んだつつじを進が細かくちぎって、風呂に入っている佳奈に振りかけるシーンで出てきた描写です。佳奈はつつじで道を作っていたのですが、進がそうとは知らずに自転車で踏んでしまい、怒った佳奈につつじをもとに戻せと言われて、それができなかった進はいらいらして花を小さくちぎって佳奈に振りかける暴挙に出たのですが、佳奈はつつじの花吹雪の美しさに息をのむと同時に、つつじの花をちぎるという行為の残酷さを意識し、しかし自分がしたつつじを摘む行為も、本質的にはそれと変わりないことに思い至って恐怖する、という意味のシーンです。
私は、湯船に浮かんだこまかい花びらを、お湯と一緒にじゃぶじゃぶすくった。それはとてもきれいだったが、こわくもあった。花が完全に死んでしまったことがわかるので、こわかったのだ。紅や朱や濃い桃色のかけらは、花の血のようだ。進が花を殺してしまったと思い、私は湯船の中でみぶるいした。
子供のころ、花を摘むとか、昆虫採集するといった類の自分の無邪気な行為が、実は生命のタブーに触れる行為だということに突然思い至り、恐怖を覚えるという体験はわりあいメジャーな体験なのではないかと思います。ここの描写は、そんなときの恐怖の湧きあがり方やその衝撃を、花のかけらを眼前にたたきつけられるという方法でうまく表現していると思います。
■永遠の脇役
これは、佳奈の友達の家で働いている調律師の「センダくん」に対する描写として登場する言葉で、この脇役には「誰のものにもならない」という形容が付き、マイナスではなくプラスのイメージで語られています。
センダくんは、物語の登場人物みたいで、年齢不詳でいつまでも年をとらず(二十六だって知ってるけど、現実味がないもん)、もちろん主人公じゃなくて、誰のものにもならない永遠の脇役―――スナフキンみたいで、だから、私のモンだって思ってたの。だから、お嫁さんになってもいいって思ったの。
本書で指摘されている通り、スナフキン的な男性がモテるということは何となく理解できますし、またそういう種類の男性が昭和の少女漫画においてヒロインの父や兄というポジション(恋愛対象ではない)にいるというのも想像に難くありません。これはそこのところを上手く言い当てた表現だということができるのですが、それとは別にこの事実はある意味興味深い事実です。多くのモテたい男性がその意に反してモテない原因の一端がここに表れ見えています。世のモテたい男性がしている努力というのは、「異性にとっての主役になる」ための努力であるのに対し、皮肉にも女性は、「永遠の脇役」を進んで自らの主役に据えているというのです。詳細な考察はまた改めてするとして、ここのところのすれ違いがモテたい男性にとっては戦略立案の肝になってくるのではないでしょうか。
--『サマータイム』まとめ--
本書は、
若干の少女趣味を有しながらも、子供にとっての日常を子供らしい瑞々しい感性で描写することに成功している
そんな作品だと思います。
■関連する作品
今回ご紹介した作品はこちらです。
ちなみに、私が言う「昭和の少女漫画」というのは、私が唯一読んだことのある昭和の少女漫画『Papa Told Me』の世界観に基づいています。