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式典とUFO

考察しました。

 

■UFOという呼称

 

子供のころ読んだ児童書に、UFOについての記述があって、それによると、UFOはその意味としては「まだ確認できていない空飛ぶ物体」という意味で、UFOに関する情報を何一つ提供していないが、それでも名前があると人は安心する、という事でした。UFOはunidentified flying object(未確認飛行物体)の略であり、先述の通り、この名前はUFOに関する実質的な情報を何一つ提供していません(唯一意味がある部分としては、「飛行」の部分ですが、UFOを認識した時点で物体が空を飛んでいるところまでは自明なので、この情報も新奇性を持たないとすぐに知れます)。また指摘の後半部分の、名前があれば何となく安心してしまうというのも実感を伴う経験的な事実であり、人間の認識の限界を端的に指摘したという意味において、これは非常に鋭い見解だと思います。

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名前があれば何となく安心

 

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■葬式

 

今回の記事は、この「名前があれば安心する」ということの好例を日常生活で発見したという話です。実は先日、身内に不幸がありまして、葬式に参列してきました。割と近しい身内であっただけに、私自身もそれなりに動揺したのですが、葬式が始まって、葬式にまつわる仏教の諸々の儀式的手続きを踏んでいくうちに、何か安心する感覚がありました。後になって考えると、この葬式の中にみられる高度な儀式性は、人間の死という人間にとって原理的にunidentifiedな出来事に便宜的な名前を付けようとする行為であるということに気づきました。

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葬式という営みは、死という原理的にunidentifiedな出来事に名前を与えている

 

僧侶の大仰で傲慢な態度、葬式の最中の意味不明で大掛かりな儀礼、掛け声、音響効果は、死という事柄を、遺族が「unidentified」なままに、その道のプロが処理してくれているという確信を遺族に提供しています。死に関する何ら論理的科学的な説明はなく、そんなものは僧侶だって知らないのですが、やはり実際問題として葬式が終わると遺族は何となく安心します。

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死に葬式という形で収まりがつけば、遺族は何となく安心

 

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■他の式典

 

先に述べたことは、何も葬式だけに限らず、そのほかの冠婚葬祭、全ての式典においていえることです。学校の入学式は、その学校にすでに入学し、生活し、卒業した先輩たちがいるし、先生方にとっては新入生と彼らの成長は毎年恒例のことですが、新入生たちにとってその学校という環境と、そこで出くわす悲喜交々は紛れもなくunidentifiedに類する事柄です。卒業式も結婚式も同様のことが言えます。

 

結婚式などは、全くのunidentifiedというわけではなく、新生活のことはわからないけど、恐らく楽しく喜ばしいものであるに違いない、そうあってほしいという希望や祈りを内包した推測が色濃く現れ、形式と日常がまじりあった独特なテイストである点は、特筆に値します。考えてみるとどの式典にも、程度の差こそあれどその式典なりに、自分がこれから出くわすunidentifiedな出来事に幸多かれという祈りがあります。

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どの式典にも、unidentifiedな未来に対する祈りがある

 

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■まとめ

 

まあだからどうだということはないのですが、子供のころ読んだ本の内容が数十年の時を経て実感として納得されたという話です。読者諸賢も何か式典にご出席なさる折には、今まさに式会場上空に飛来しているかもしれないUFOについて思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

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