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小説にみられる1%の奇跡

考察しました。

 

構成は以下の通りです。

■概要

■例1_『東京夜話』(いしいしんじ著)より「クロマグロとシロザケ」

■例2_『阿Q正伝』(魯迅著)より「故郷」

■例3_『きことわ』(朝吹真理子著)

--まとめ--

 

■概要

 

小説を読んでいると、一つの典型的な感動パターンがあることに気づきました。それは、救いがたい状況を設定された作品において、非現実的な現象(私の言う1%の奇跡)が起こり、それが読者に感動を与える、というパターンです。この非現実的な現象は、救いがたい状況そのものを覆すほどの威力はなく、あくまで作品そのものの結末はバッドエンドと言っていいものなのですが、しかしその非現実的な現象が印象深く存在するのでただのバッドエンドを超えた趣を生む結果になります。例を挙げて説明します。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■例1_『東京夜話』(いしいしんじ著)より「クロマグロとシロザケ」

『東京夜話』いしいしんじ著 - H * O * N

 

この作品は種族違いの恋をしてしまったクロマグロとシロザケが、種族の違いに引き裂かれ結ばれることができず、ともに水揚げされた築地で再会し思いを遂げる(メスのシロザケが産卵しオスのクロマグロがその卵に精子をかけるという魚類独特の方法によって)話なのですが、この作品では、結ばれない恋という救いがたい状況にいる二匹が、築地で再会し思いを遂げることができるという奇跡を起こしています。水揚げされた魚が生きていて再開し、生殖活動をするというのは非現実的な話なのですが、その非現実性を小説の中で打破することが、感情移入している読者にとって非常なカタルシスになるわけです。

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非現実的な奇跡を小説の中で起こすことでカタルシスが生まれる

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■例2_『阿Q正伝』(魯迅著)より「故郷」

『阿Q正伝』魯迅著 より『故郷』 - H * O * N

 

この話は、主人公「私」が故郷に帰った折、幼いころの友人「閏土」と再会し、二人の間に悲しむべき壁を見出す話です。本来的に主人公と閏土のあいだには身分の壁があり、子供のころはそんなことは意識せずに遊んでいたのですが、大人になった閏土は主人公のことを「旦那さま」と他人行儀に呼び、二人は友情を確かめることなく別れてしまいます。船で故郷を離れながら主人公は旧友との間の壁を嘆き思案に暮れますが、主人公の甥っ子は、閏土の息子と友達になり、遊ぶ約束をしたといいます。主人公は彼らの友情は自分たちのそれとは違ったありかたをしてほしいと願い、主人公たちの乗る船が向かう大地は、かつて幼い閏土が主人公に語った、幻想的な西瓜畑の風景とそっくりであるというラストです。友情の喪失という救いがたい状況に陥った主人公が、次の世代の子供たちの友情を思ったときに、かつての主人公と閏土の友情の象徴である西瓜畑のイメージが、自分たちの船の向かう先に表れてくるというのが本作に顕現している奇跡です。主人公と閏土の友情の回復はできないのでバッドエンドには変わり有りませんが、最後の奇跡が将来の希望を示唆していて、悲しくも爽やかで元気が出る作品です。

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将来の希望の示唆という奇跡

 

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■例3_『きことわ』(朝吹真理子著)

『きことわ』朝吹真理子著 感想 - H * O * N

 

この作品は、母の死、母と暮らした思い出のある別荘の取り壊しという避けようのない悲しみに出会った主人公が、それらの仕事をつつがなく終える話です。当時の思い出深い知り合いや友人と出会うなどのイベントを挟みつつストーリーは進行していき、最後に主人公「貴子」は別荘が取り壊され更地になった土地に、四季折々の自然の変化が移ろう様を、自身の記憶とともに夢に見ます。死別のような避けられない悲しみを所与のものとして受け入れつつ、しかし分かれたものとの思い出は記憶に残っているという全く自明のことを主張しているにすぎないのですが、最後に見た貴子のこの夢は本作における紛れもない奇跡であって、死別という現実は当然変えられないけれども、それに相対する人間の心持ちには一つの変化をもたらす性質のものだと思います。

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死別を前向きに解釈する夢という奇跡

 

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--まとめ--

 

なぜこれらの奇跡が、現実を変えるほどの力はないにもかかわらず、われわれの心を打つのでしょうか。それはこれらの奇跡が、われわれが変えがたい現実に遭遇した時、自分たちの中でつける折り合いや、あきらめた後にまた前を向いて歩いていくときの気持ち、そういったものに非常に近く、またそういう感情が文学的な手法で美しく表現されていると感じるからではないでしょうか。

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妥協や再起という我々の感情を文学的に作品にしたものが奇跡

 

個人個人の過去の思い出の中で、そういう妥協や再起の物語というのは泥臭く、醜いものであるかもしれません。しかし当人にとってはそれが本気の結果であり、愛着もあれば、そのころの情熱をも思い出せるような、他人には説明不可能なレベルの思い入れがあると思います。学生自分の実らなかった恋を、あきらめてはいるけれども何年たっても忘れていないだとか、そういうような話です。作品の中で奇跡を目の当たりにするとき、自分の中のそういう泥臭い思い入れの部分が反応しているように思えてなりません。

 

ちなみに、この思い入れについては、『少女は卒業しない』(朝井リョウ著)の紹介の中でも触れています。

 

 

『少女は卒業しない』朝井リョウ著 - H * O * N

 

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