『臨場』
映画観ました。
『臨場』
以下感想です。
■悪役に対する嫌悪感
■嫌悪感の原因
--『臨場』まとめ--
■関連する作品
■悪役に対する嫌悪感
本作の悪役は、精神科医の加古川有三、弁護士の高村則夫、犯人の波多野進の面々です。精神科医と弁護士は、自分たちの利益を最大化するために、事件の犯人をわざと精神異常者に仕立て上げて無罪を勝ち取るということをしています。犯人は、そんな精神科医、弁護士と口裏を合わせ、精神異常者のふりをして実際に無罪を勝ち取ってしまうということをしています。この人殺しをしておきながらその報いを受けないという所業には、多くの人が直感的に倫理的な嫌悪感を抱くことでしょう。
倫理的な嫌悪感を催す悪役
■自由主義の法治国家日本における秩序の在り方
法治国家である日本は、基本的に誰かの自由を縛れるのは法律のみという原則があります。倫理によって自由が縛られてはならないというのが今回重要です。悪役に正義の鉄槌を下そうとした法医学教室教授の西田守は、多数の倫理に従うところの行いをしましたが、そういう行為は許されないということです。法律はそもそも、多数派の倫理に従っていくはずのもので(人を殺してはいけない、という法律だって、その源泉は人を殺すことに倫理的な嫌悪感を持つ人が多いというところに帰着すると思います)、基本的に法律によって自由を縛るということは、多数派の倫理に従って自由を縛るということに近似しますが、法律だって完璧ではありません。多数派の倫理が変遷して、その動向をリアルタイムで追えないということや、ある倫理の賛成派否定派が真っ二つに割れてどちらが正しいか甲乙つけがたいことがあるかもしれません。
自由を縛れるのは法律のみ
■嫌悪感の原因
結局、この作品の悪役の嫌悪感というのは、悪役が「法律には触れないが倫理に触れるという状態」であることに起因すると思います。これは、マナー違反に対する嫌悪感と同じです。今回のような法律の抜け穴を利用して私腹を肥やしている悪役に法律的な手続きを踏むことなく正義の鉄槌を下したくなる感情は、マナー違反をしている人を注意したくなる感情と同じということになります。
法の抜け穴を利用し、私腹を肥やすことに対する憤りは、マナー違反に対する憤りと同じ
--『臨場』まとめ--
当然のことですが、私はこの記事で日本の精神異常者の犯罪に関する問題について何か意見を述べたかったわけではありません。そうではなく、本作の悪役を見たときに、悪役に対する嫌悪感の発生が自分でも感知するよりも早く生まれていたことが気になりこの記事を書きました。自分が何かに嫌悪感を抱くとき、それが自分に全く近くされていない状態というのは危険なことですし、冷静さを欠いた態度だと思います。今回のような、だれが見ても悪役という存在に対して憤るというような当然のことにおいても、いったん立ち止まって自分の感情を一度考えてみるという振る舞いは、心穏やかに過ごすために必要なのではないかと思いました。
この記事の目的は悪役に対する憤りの感情を観察してみる試み
■関連する作品
多数派の倫理を取り扱った作品としては、過去に紹介した『狭小邸宅』新庄耕著があります。
この作品における多数派の倫理は、所属する会社や業界の倫理で、主人公の人としての倫理がその多数派の倫理との齟齬や摩擦のために悲鳴を上げる、「人間危機」を描いた作品です。本作「臨場」においては、悪役は文句なしの悪役で、多数派の倫理は正しいのですが、「狭小邸宅」の多数派の倫理は、利益第一主義で、誤りを含んでいます。この作品は、「臨場」の悪役に多数派の倫理に基づき正義の鉄槌を下すことに慎重にならなければならない理由を考えるのに適していると思います。