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『佐藤富雄の「ツキ」の法則!』佐藤富雄著

>楽天思考

夢や希望を実現していくプロセスで一番重要なことは、「心を楽天的に、快に保つ」ということです。「快」は、脳の自動目的達成装置をONにします。全細胞を喜ばせ、はつらつとした体の代謝リズムをもたらします。結果的に、大きなことを容易になし遂げてしまうケースが多いのです。そしてもうひとつ、「夢を思い描くなら、できるだけ大きな考え方をしたほうがいい」ということです。

…(略)…

夢が大きすぎて困るということはありません。なぜなら、人は実現不可能な夢は決して持てないからです。

楽天家と言われる人々は、明るく、やさしく、陽気な笑いに満ちています。不安や後悔を寄せつけません。そして、数えきれないほどの夢と希望を持っています。また、感受性が豊かで、質の高い音楽や文学に親しんでいます。そのため語彙が豊かで、他人に対していい言葉遣いで接することが上手です。他人の楽天的な夢や希望を聞くことも大好きです。要するに、ひとことで言って、心が「快」なのです。

[法則1]自分に起きることは、いかなることも自分にプラスになることである。

[法則2]自分に起きることは、いかなることでも自分で解決できることである(自分に解決できないことは、自分には起きない)。

[法則3]自分に起きた問題の解決策は、途方もない方角からやってくる(だから、今お手上げ状態でも決してめげてはならない)。

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『運命は「口ぐせ」で決まる』佐藤富雄著

>少しだけ不幸

誰もが自分のことをなんらかの意味で不幸だと思っている部分があるということです。主婦の人たちを例に挙げると、彼女たちは、夫に対する不満をたくさんもっています。「私はいい心をもっているのに、夫はわかってくれない」「私は優しい言葉をかけているのに、夫はかけてくれない」「私は家族のことをこんなに心配しているのに、夫は理解してくれない」......。

十人中八人くらいは、こういうことをもらします。では、不幸かというと、そうでもないのです。それなら別れたらいいといっても、絶対に別れない。つまりは、少しだけ不幸、なのです。

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『フルメタル・ジャケット』

>モチーフの対置がスゴイ

たとえば訓練所で浴びせられる罵声の過激で過酷な内容と、ランニングのときに歌うバカな歌、陽気な長調のメロディと厳格さを排除した歌詞が与える印象が、それ以外の自由や尊厳のはく奪を強調しています。彼らはベッドで休むとき、銃を抱いて寝る、休息や弛緩の場であるはずのベッドに、最も似つかわしくない義務と業の象徴である銃が持ち込まれ対比されるわけです。さらにその銃に女の名前をつけて呼ぶというおまけつきです。こういう細部に対する病的なまでのこだわりは、のちのレナードの発狂と凶行に妙な説得力をあたえています。

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『阿Q正伝』魯迅著、増田渉訳

>奇妙な同一性

阿Qは、未荘の中でも社会的なカーストの低位に位置する存在として描かれています。未荘の人々の振る舞いから、そのことが読み取れる箇所がいくつもあります。

 

阿Qは心の中で思ったことを、後にはいつも口に出していうようになった。だから阿Qをからかうすべての人々は、ほとんどみな彼がこのような一種の精神的勝利法をもっていることを知った。それからというもの、彼の辮髪をつかむと、人はまず最初にこういう、

「阿Q、これは子供が親父を殴るのではないぞ、人間が畜生を殴るのだぞ。お前自身でいえ、人間が畜生を殴るのだ!と」阿Qは両手で自分の辮髪の根元を握りしめて、頭をゆがめながら、いうのである、「虫けらを殴る、といったらどうだい?俺は虫けらだ――これでも放してくれないのかい?」

だが虫けらであったところで、閑人たちは決して放しはしない。いつものようにどこか手近なところへ連れて行って五つ六つゴツンゴツンと音を立てて打っつけて、それでやっと満足した気持ちで、勝ち誇ってその場を去り、阿Qも今度こそ打ちのめされただろうと思うのである。ところが十秒もたたないうちに、阿Qもまた満足した気持ちで、勝ち誇ってその場を立ち去るのだ。彼は彼こそ自分を軽蔑し、自分を卑下することのできる第一人者だと思う。「自分を軽蔑し自分を卑下する」というのを除いていえば、その余りの部分はつまり「第一人者」ということになる。文官試験の首席も「第一人者」ではないのか?「貴様なんかがなんだい」だ!

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『椿姫』デュマ・フィス著、新庄嘉章訳

>墓を開く

お墓の移築のシーンは強烈です。

 

大きな白い経帷子が死体を蔽うて、ところどころからだの曲線を描き出していた。この経帷子は片すみがほとんどすっかり腐って、そこに死人の片足がのぞいていた。

わたしは気分が悪くなるような思いがした。今こうやって書いているときでさえも、あの光景の思い出がまざまざとよみがえってくるようだ。

「さあ、急ごうぜ」と警官が言った。すると、ひとりの男が、手をのばして経帷子の縫い目をほどきにかかった。そして、端をつまみあげたかと思うと、いきなりそこにマルグリットの顔があらわれた。それは見るも恐ろしく、語るもすさまじい光景だった。両眼は、もはや二つの穴でしかなかった。くちびるは影も形もなくなり、そこにはかたくくいしばった白い歯が露出していた。ひからびた長い黒髪は、こめかみにへばりつき、両頬の緑色のくぼみを少し蔽いかくしていた。だが、わたしはこの顔の中にも、かつて幾度か見たことのあるあの色の白い、ばら色の、楽しげな面影を認めたのだった。

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『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳

>ニルヴァーナとは何か

生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、―それは喜ぶに足りない。

それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまること無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。

水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちから、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

とある通り、我々が普通想像する天国とか極楽とかとはだいぶ様相が異なっていて、普通想像するすごい明るくてすごい美味しいご飯があって、カワイイ彼女が100人いる、みたいな天国観は、完全なフィクションであるにもかかわらず、その受益者であり行為主体である我々という存在は、現世のそれをそのまま借りてきた構造をしていることがわかります。環境がフィクションで、自己がノンフィクションです。

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『八十日間世界一周』ジュール・ヴェルヌ著、鈴木啓二訳

>協働の物語

この話は、理想の協働のあり方の物語と読むことができます。

この作品の主人公、フォッグとパスパルトゥーはお互いに対立する性質をそれぞれ持っていて、それぞれ静と動の人ということができます。例えば

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